コロナとともに母の状態はより悪くなり、悪いところからの回復がなかなか厳しい状況

最近あったこと
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2020年の春、この世界は、コロナという目に見えない恐怖に襲われていました。

それにより、さまざまな状況が、想像もできないような状況に変わってしまいました。

そんなころ、パパの実母も、体調を悪くして、入退院を繰り返すようになってしまいました。

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母親でありながら母親ではない…

ある日突然…

2014年くらいの話になるかと思います。

ある日突然、母から連絡が来ました。

「ここから逃げたい。助けて。」

そんな内容だったかと記憶しています。

そして、実家へ母を迎えに行き、妹の家に向かいました。

それは、やっと母が感情を出せたときであり、終わりの始まりだったかもしれません。

全てを背負ってきた

父は家庭を省みない人でした。

良く言えば仕事人間。

家のことは全て母親がやっていました。

3人の子育て、祖母の認知症対応、叔母の病気、叔母の死、死後のアパートの片付け、祖母の死。

もちろん、文字に起こしたのは1行だけですが、これだけではありません。

小さい頃はよくわかりませんでしたが、嫁姑の関係や、嫁小姑の関係、23歳の若さで、親元からずいぶんと離れた場所に嫁いで生活をしてきました。

自分が大人になってひとりで生活するようになってから、母がたいへんな苦労をしてきたと想像できるようになりました。

中学時代は、ようやくパパが母の愚痴を聞く役目ができるようになりました。

勉強の合間に、母とコーヒーを飲みながら、父のこと、祖母のこと、いろいろ話をしました。

その頃から、母親と息子の関係も少しずつ変化してきたと思います。

パパが親元を離れて暮らすようになってからも、帰るとたくさん話をしました。

祖母の様子がおかしくなっても、なかなか父親が対応してくれないこと。

叔母の病気が思わしくなくて、入院中の世話を全てしたこと。

叔母が亡くなったあと、ひとり暮らしをしていた部屋を全て片付けたこと。

大変だったことを挙げれば、きりがないくらいです。

でも、茶道を楽しんだり、パート先の人たちと楽しく過ごしたり、子育てが終わり、祖母と叔母が亡くなってからの母は、自分の楽しみも見つけ、楽しく過ごしているものだとばかり思っていました。

孫もでき、そんな孫をかわいがる様子を見ても、これからは自分の好きなことだけをして生きていって欲しいと思っていたし、そう話してもいました。

しかし、20代から60代までの40年間、全てを背負ってきた負荷というのは、私の想像以上だったようでした。

それが一気に爆発してしまった、あとから思えば、そんな感じでした。

あの日から…

パパに助けを求めてきたあの日を境に、母はどんどん壊れていきました。

実際には、目に見える速度ではなかったとは思いますので、どんどんというのは適切な表現ではないかもしれません。

でも、私が中学生、高校生の頃、良く話をしていた母ではなくなってきてしまいました。

いつも何かに怯え、常に不安を抱えている母に、どこまで寄り添えたのか、そう自問自答するときが今でもあります。

娘ができ、息子ができた今、彼女、彼らに対する自分の愛情を考えると、母の自分に対する愛情は、実際に感じていたもの以上であったことが、やっとわかります。

2017年の家族旅行から

娘ができて半年を過ぎた頃、妹一家と、パパ、ママ、娘、そして母親で、旅行に行きました。

そのときの写真が、我が家に飾ってあります。

その母は、とても優しそうで、笑顔であり、何ら健康時と変わらないように見受けられます。

今思い返しても、あのときは本当に楽しそうだった。

娘の世話も喜んでやってくれていた。

母の実家に帰ったときも、心から安らいでいるように見えました。

あれからたった5年しか経っていないのに、いまでは、その笑顔も見ることが難しくなっています。

2018年のひな祭りは、7段飾りのお雛様を出していましたが、それが最後になっています。

2019年の娘の誕生日には、楽しそうな声が録画した映像から聞こえてきています。

2020年の娘の誕生日の頃は、もうあまり笑えなくなっていました。

入院~転院

そして2020年5月、食事がほとんど取れなくなり、点滴に通っていたのも難しくなり、ついに入院となってしまいました。

同時にコロナが蔓延し、お見舞いも行けない、全く会えないという状況になりました。

そんななか、2020年7月、誤嚥性肺炎にて、緊急搬送されるという事態になりました。

なんとか峠を越して、容態が安定してきたので、転院することになり、そのときに久しぶりに会えるということで、家族で転院に立ち会いました。

このときは、車椅子で現れ、なんとか我々の呼びかけに答えることができる、まだ認識しているかなという状態でした。

しかし、医師からは認知症も進んでいると言われてきたのもこのころです。

入院している病院での受入期限が過ぎてしまうことで、転院することになり、ここでも家族で立ち会いました。

もう転院するときにしか会えないと言う状況です。

そこで我々が目にしたのは、信じられない母の姿でした。

ストレッチャーでの寝たきり状態です。

呼びかけに対しても全く反応がありませんでした。

姪は、衝撃が大きすぎたのか、泣き出してしまいました。

しかし、転院先の病院との相性が良かったのか、母は自力歩行ができるまで回復しました。

そんな病院も期限が来たので出なければならないことに。

新たな施設に転院するときに、念のため車椅子を利用しましたが、前回ストレッチャーにいた母とは別人のように顔色もよくなっていました。

次の施設でも居心地が良かったようで、歩き回れるほどになったそうです。

しかし、慣れた頃に期限が来てしまうという、現実。

認知症もかなり進行してきたということで、グループホームにお願いすることになりました。

今度は期限がなくいられるようでした。

通院する際に何回か送迎したのですが、残念ながら、パパのことを認識している様子は見られませんでした。

食事が取れなくなる

2022年の6月のこと、発熱により緊急搬送されました。

父が全て対応したようで、我々兄弟は、あとから知らされました。

搬送された病院で、ドクター、ナース、リハビリ担当の方々とカンファレンスがありました。

グループホームの施設長も同席してくださり、今後の方針を決めるというものでした。

食事が取れないと、中心静脈への点滴か、胃瘻か、そんな選択肢が示されました。

いずれの選択でも、グループホームには戻れない、どこかまた新たな受入先を探す、これは環境の変化を嫌った母にとっては大きな負担であると考えました。

グループホームでは、1年ちょっと生活をさせてもらっています。

その慣れてきた環境に戻って、自発的に食事を取れるようになることを期待するという選択を、パパと妹でしました。

母が食事を取らないというのは、自分の意思なのか、もはや知り得るところではない状況です。

しかし、リハビリ担当の方の、甘いものは食べようとしますという一言で、パパは、まだ母には食べたいという意欲があるのだと思いました。

だから、慣れた環境で、もう一度生きたい、食べたいと思えるようになることを期待するしかないかと。

もう環境を変えて苦しい思いをさせたくないという思いもあります。

母が何を望んでいるのか、今は知る由がありません。

だから、今の母の気持ちに、どうにか寄り添った方向を歩きたいと思っています。

聞いてっていただき、ありがとうございました。

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